『図書館戦争』という作品が好きです。
小説を読み始めたころに、ちょうどアニメも始まったので、私の中では小説とアニメの世界観がセットでできあがりました。
だから、
「アニメはなんかイメージと違うんだよねぇ」
という感覚が、ほとんどありませんでした。
私の中では、郁は最初からあの郁だったし、堂上はあの堂上でした。
図書館で借りて読んだのが最初でしたが、結局あとから電子書籍で全巻買いました。
何度も読み返したいと思ったんですよね。
コミック版は妻や娘も読むとのことで、こちらは紙媒体で全巻揃えました。
アニメも見ました。
劇場版も見ました。
実写版も映画館へ見に行きました。
……実写版については、まあ、はぃ…
この人なら、こうする
『図書館戦争』の世界観が面白い、というのは、もちろんありますが、著者「有川浩」さんの自衛隊三部作の方を先に読んでいて、この方の人物の描き方や、セリフがとにかく気に入っていました。
「この人なら、こうするだろう」
という期待を、登場人物たちが裏切らない。
郁ならこう動く。
堂上ならこう言う。
小牧なら、柴崎なら、手塚なら。
物語の先が読める、という意味ではありません。
ミステリーなら、
「まさか、この人が」
という展開の方が面白いのはもちろんなのですが、その驚きを作るために、それまで自分の中で積み上げてきた人物像が突然壊されてしまうのが苦手です。
物語には裏切られてもいい。
でも、人物には裏切られたくない。
それが、わたしの好き嫌いの「元」みたいです。
予想通りなのに、予想より熱い
有川浩さんの作品で特に好きなのは、
「この人なら、きっとこんなことを言うだろうな」
と思っていると、その予想を超えた熱いセリフが出てくるところです。
『図書館戦争』の中で、夏目漱石の『坊っちゃん』から引用された「無法でたくさんだ!」という言葉が使われる場面があります。
単に「ルールは破ってもいい」という意味ではなく、間違っていると思うものに、何も考えず従うことが本当に正しいのか、という言葉として。
郁のまっすぐさと、堂上が大切にしているものが、堂上の愛読書でもある『坊っちゃん』の中の一文で重なる。
こういうところが、たまらなく好きでした。
もっとも、『図書館戦争』は、とてもまっすぐなラブストーリーでもあり、コミック版が少女漫画として刊行されたのも、読んでみれば納得です。
子どものころは、トイレへ逃げていた
子どものころ、テレビドラマで、主役の子どもがちょっと悪いことをする話が苦手でした。
嘘をついたり、親に隠れて何かをしたり。
「それ、絶対に見つかるぞ」
ドキドキハラハラさせられ、案の定、見つかる。
あの「見つかるまで」の時間が、とにかくつらかったんです。
往年の名作「ケンちゃんシリーズ」などでそんな展開になると、私はテレビの前にいられなくなって、トイレへ行ったりしていました。
今思えば、道徳的に間違ったことをする主人公を見ること自体が、子どもの私には耐えにくかったのかもしれません。
今もドキドキハラハラはあまり得意ではないのですが、その人物らしいのであれば、多少「無法」でも構わないと思えるようになりました。
道徳的に正しい人であることより、
その人なりの筋がちゃんと通っていること。
私には、そちらの方が大事になったようです。
安心というのは、何も起きないことじゃない
30年ぐらい前、ミステリー小説にハマった時期があって、浅見光彦シリーズや、十津川警部シリーズはずいぶん読みました。
図書館の棚にあるものを、それはもう片っ端から。
この二人も、やはりブレません。
事件は毎回違う。
驚く展開もある。
でも浅見光彦は浅見光彦だし、十津川警部は十津川警部です。
だから安心して読める。
一方で、長く見てきた人物が突然、
「この人、こんなことを言う人だったっけ?」
となると、かなりつらい。
子どもと一緒に観ていた『仮面ライダー響鬼』の後半で、そんな違和感を覚えたことがありました。
物語の展開が変わることよりも、ある程度は知っていたはずの人物が急に別人になったように感じる方が、私にはきついようです。
タイトルの、
「安心して見ていられる作品が好き」
というのは、平和な作品、何も起こらない作品が好きという意味ではありません。
人が死ぬこともある。
裏切りもある。
悲しいことも起きる。
意外な人が犯人だったりする。
それでも、
「この人なら、こうするだろう」
という信頼を最後まで崩さない作品が、私は好きなんだと思います。
安心して見ていられる作品が好き、って、そんな噺です。
