仕事帰りに、車の整備のために立ち寄った店に、1台の車が置いてありました。
シルバーのHONDA BEAT。
走行距離は、たしか400kmほど。ほとんど新車のような状態でした。
当時はMAZDAのロードスターも大人気で、オープンカーには強い憧れがありました。
けれど、BEATはロードスターよりずっと小さい。しかも軽自動車です。
「オープンカーって、この値段で乗れるんだ……」
そう思った記憶があります。
運が良かったのか悪かったのか、その日はたまたま鞄の中にはんこが入っていました。
当時住んでいた市では、軽自動車を買うのに必要なのは住民票くらいだったと思います。
「住民票は明日持ってくるね!」
そう言って、その場ではんこを押して店を出ました。
完全な衝動買いです。
買ってすぐ、海まで走った
納車されて、その足でそのまま近くの海まで走りに行きました。
もちろん幌は全開です。
最初に驚いたのは、とにかく小さく、そして低いこと。
分かっていて買ったはずなのに、いざ運転席に収まって前を見ると、視界の左端から右端まで車体の縁がぐるりと見渡せるのです。
なんというか、車輪のついたバスタブに腰掛けて、そのまま道路を疾走しているような感覚でした。
空は近いし、地面も近い。
車の中に座っているというより、小さな精密機械の中に自分の身体をぎゅっと押し込んで走っているような、強烈な衝撃でした。
「バイクかよ」と思った
BEATは、どこを見ても普通の車とは少し違っていました。
前後でタイヤのサイズが違うし、メーターパネルのデザインもまるでバイクのよう。
「バイクかよ」
思わず心の中でツッコミを入れましたが、実際に走らせている感覚も、どこかバイクのそれに近いものがありました。
エンジンは660ccのNA(自然吸気)。
低回転からぶ厚いトルクで力強く引っ張るタイプではなく、どこまでも高回転まで回してパワーを絞り出すエンジンです。
回して、シフトして、また回す。
手首をクイッと返すだけで吸い込まれるように決まるシフトも実に小気味よく、絶対的なスピードよりも、
「この車が持っている性能を、自分の手足で余すことなく使い切っている!」
という手応えが、たまらなく楽しい車でした。
持て余すほどのパワーを持つ現代の高性能車とは、まったく逆の世界です。
小さなエンジンを思い切り回し、小さな車体を意のままに走らせる。
そのすべてを自分で操っている一体感が、たまらない快感でした。
荷物が載らないって?
もちろん、不便なところを挙げればキリがありません。
まず、荷物が載りません。
一応トランクらしきものはありますが、感覚としてはテニスラケットとボールが数個入ったらもう満杯。
大きな荷物を職場へ運ばなければならない日には、幌を開けて、助手席に荷物を天高く立てかけて走ったこともあります(オープンカーの使い方としてはいかがなものかと思いましたが)。
車高が低いうえにサイドシルが高いため、乗り降りもひと苦労です。
身体を地面に落とし込むようにして乗り込むのですが、油断して幌の鉄フレームに側頭部を強打し、悶絶したことも一度や二度ではありません。
雨の日には、スーツの裾をドアに挟んだまま走ってしまい、目的地に着いて降りたら裾だけびしょ濡れ、なんてこともありました。
意外だったのは、冬でもサイドウィンドウを上げてヒーターを効かせておけば、オープンのままでも露天風呂のように暖かかったこと。
……ただし、信号待ちで見つめてくる周囲の視線は、真冬の風より冷たかったです。
高速道路に乗れば、並走する大型トラックの巨大なタイヤが自分の目線より高い位置にあり、本気で恐怖を感じました。車体自体が羽のように軽いため、トラックが横を通り抜けるたび、風圧でそちらへ吸い込まれそうになったものです。
足りないんじゃなくて、削り切っていた
それでも、BEATが大好きでした。
荷物は載らない。
人も2人しか乗れない。
とんでもない馬力があるわけでもない。
快適装備も安全装備も、今の車と比べれば無いに等しい。
けれど今振り返ると、あれは何かを諦めて「足りなかった」のではなく、走る純度を高めるために「削り切っていた」車だったのだと思います。
- 軽規格
- 2人乗り
- オープン
- ミッドシップ
- 高回転まで突き抜けるNAエンジン
- 手首だけで決まるショートストロークのシフト
- バイクそのもののメーター
「走ることを楽しむ」ために必要なものだけを残し、それ以外の夾雑物をすべて思い切って削ぎ落とした。
だからこそ、この車で何を楽しむべきなのかが、研ぎ澄まされた刃物のように分かりやすかったのでしょう。

一年で降りた
BEATには1年ほど乗りました。
嫌いになったから手放したわけではありません。車を1台しか持てない生活環境の中で、日常のすべてをBEATだけでこなすには、どうしても無理がありました。
では今、「走行距離の少ない極上のBEAT」が目の前に現れ、買えるだけのお金があったとしたら、買い戻すでしょうか?
そう聞かれたら、たぶん私は「買わない」と答えます。
私自身も歳を重ね、現代の車がもたらしてくれる手厚い安全装備と安楽さにすっかり慣れてしまいました。
アシストもエアバッグもないあの小さなマシンを、昔のように無茶をして走らせる自信は、今の私にはありません。
けれど、「あの車が大好きだった」という記憶の輝きは、今も色褪せることなく胸に残っています。
BEATの上には空しかない
BEATに出会う前の私には、いつも「その先に欲しい車」がありました。
2ドアのカローラに乗っていたころはセリカに憧れ、
レビンに乗ればスープラやソアラが羨ましかった。
リトラクタブルのアコードに乗っていたころは、インスパイアやビガーに目移りしていました。
でも不思議なことに、BEATに乗っていたあの1年間だけは、大人気のロードスターを見かけても、
「次はあれが欲しいな」
とは、一度も思わなかったのです。
ーーもちろんロードスターが素晴らしい車だからこそで、現行モデルは今でも大好きな車の筆頭ですが

上を見ればキリがありません。
もっと速い車も、もっとお洒落な車も、もっと広くて豪華な車も、世の中にはいくらでもありました。
けれど、BEATの運転席に座って上を見上げたとき、そこには、ただ青い空しかありませんでした。
ほかの車なんて、まったく目に入らない。
BEATの上には空しかない、って、そんな噺です。
