「小中学生に生成AIを使わせるのは、まだ早いんじゃないか」
という話をよく耳にします。
その理由も、けっこう分かるんです。
私も一応、学校で子どもたちにパソコンやプログラミングを教えてきた側なので、
「宿題を全部AIにやらせるんじゃないか」
「読書感想文まで書かせてくるんじゃないか」
「数式を入れれば、グラフまで描いてくれるじゃないか」
なんていう心配は、ものすごくよく分かります。
そして先生だったら、たぶん言いたくなります。
「でも試験会場じゃ、AI使えないんだぞ!」
慎重になるのも分かるんです
生成AIが怖い理由は、間違った情報を出すとか、個人情報を入れてしまうとか、そういうことだけではありません。
学校にとっては、
「子どもが自分で考える前に、答えをもらってしまうんじゃないか」
という心配の方が大きいのだと思います。
例えば三つの資料を与えられて
共通点を探す。
そこから新しい考えを出す。
自分の考えの弱いところを見つける。
ここは、まさに学校で身につけてほしい力です。
なのに、
「AIさん、お願いします」
のひと言で済まされてしまったら、何のために勉強をしているのか分からなくなってしまいます。
だから、学校が慎重になるのは分かりますし、むしろ慎重であるべきだと思っています。
使わせないこと、教えないこと
ただ、そこで少し引っかかるんです。
自転車にまだ乗れない子どもにも、交通ルールは教えます。
赤信号では渡らない。
道路へ急に飛び出さない。
知らないと危ないからです。
でも、
「交通ルールを教えたから、どんどん自転車に乗りなさい」
という話でもありません。
包丁だって危ない道具です。
だからこそ、刃を人に向けないとか、手渡すときの向きとか、扱い方を覚えます。
酒やたばこ、薬物だって、危険性を教えることと、使わせることはまったく別です。
生成AIも、そうなんじゃないかと思うんです。
それでも違う気がすること
これは学校だけが背負う話ではないと思います。
礼儀作法や食事のマナー、人との接し方など、本来は家庭や地域の中で覚えていくことまで、学校に求められる場面が増えているように感じます。
もちろん学校で教えてもらえるのはありがたいです。
でも、だからといって学校にいろいろと背負わせてしまうのは、ちょっと違う気がします。
生成AIだって、学校で使わなくても、家では触れるかもしれません。
居間にあるパソコンからいつでも自由に使える、という家庭もあることでしょう。
あるいは兄や姉、友達が使っているかもしれません。
だったら、
「学校で使わせるかどうか」
の話で終わらせず、
「これはどういう道具なのか」
と、家庭も、地域も、大人の側も、一緒に考えてみてはどうでしょうか。
とはいえ社会に出ると
ところが、学校を出て社会に出ると、少し事情が変わってきます。
私は高校時代赤点ギリギリだった化学反応式に関しては、いまだによく分かりません。
でも、「これとこれは混ぜたら危ない」ということはいくつか知っています。
フーリエ係数なんて分からなくてもゲームは楽しめます。
重力加速度を計算できなくても、「このゲームの落ち方、自然だな」くらいは分かります。
社会に出ると、案外そんなものなのかもしれません。
全部を一からできることより、
今何が起きているのかがわかる
何かがおかしいと気づける
その力の方が大事になる場面も多いように思います。
「ん?」と思えること
AIが出してくる文章は、とても自然に見えます。
間違っていても、自信満々に出してくることがあります。
存在しない「ことわざ」を創り上げてきたりもします。
そんなときに、
「ん?」
と思えるかどうかが、大事だと思います。
ある程度知っているから、経験しているからこそ、
「その話、本当かな」
「この動き、なんだか変じゃないか」
と気づける。
知識がなくてもプログラムが書ける時代になったとはいいますが、
「ここ、作業量のわりに時間かかってないか?」
「もっと簡単にできるんじゃないか?」
「このデータ、どこかに送っちゃってない?」
という違和感は、ある程度プログラムを触った経験がないと、なかなか出てきません。
そう考えると、
AIが出してきたものを正しく疑うためにも、学校で身につける基礎は必要なのかもしれません。
使わせるか、使わせないかだけでは足りないのかも
生成AIを小中学生に積極的に使わせるべきか。
そこは、まだ慎重に考えていいと思っています。
でもそこに、算数の教科書からソロバンが消えて電卓が登場した時代を重ね合わせてしまう自分もいます。
生成AIは
何ができるのか。
何が危ないのか。
どこまで信じていいのか。
何を自分で考えなくちゃいけないのか。
そんなことを少しずつ知りながら、
生成AIは、ちょっと怖がった方がいい、って、そんな噺です。
